priori

がんばろう

言葉と孤独について

私たちは言葉を交わすことで相手の気持ちや思考に近づこうとしている。その行為によって自分が一人ではないことを知ったり、自分の考えとリンクさせ、共感したりする。

 

しかし、言葉を交わすことで本当に人の気持ちがわかるのだろうか。

 

私たちは言葉が自分の中にあると考えがちだ。しかし実際は人間がこれまでの歴史の中で作り上げてきたものであり、言葉はあくまで他人で第三者である。

 

コミュニケーションとは、自分の中にある気持ちを、言葉という人類共通の知り合い第三者を通して相手に伝えるものである。

つまり、自分の気持ちをダイレクトに相手に伝えているように思えても、それは一度第三者を通して伝わるものである。

 

言葉は人類共通の知り合い、という表現をした。私の中で言葉は第三者という意識が強いからだ。

 

そして共通の知り合いではあるが、その知り合いに対する価値観は人それぞれ違うのだ。言い換えるならば、言葉の理解、解釈は今まで生きてきた中で培ってきたものにより人それぞれ違うということだ。

 

例えば愛しているという言葉も、私が思う愛しているという言葉がもつ意味と、尾崎豊が思う愛しているの意味は違うはずだ。人生が違うのだから。

 

愛しているだと理解しやすいが、これはどの言葉にも当てはまることだと私は思う。

 

私たちは、考えを共有するために言葉を使うが、その言葉の意味に対する共有はできないので、考えを根本から理解することは不可能なのだ。

言葉を介さない意識の共有ができない限り、私たちは孤独なのだ。

 

 

なーーーんてね。おトイレ行きたい。